長女が年末に赤子を連れて自宅に帰り、新年が明けた。年始に次女がインフルになって正月っぽいムードはなくなったけど。
正月休みが終わったもののシフトが少ないんで、家にいる時間が増えて、観たい映画もたまたまなくて、本読んで、そうこうしてるうちに戻ってきたってとこかな、usualが。
ところで、
アッシュ野郎のお姉ちゃんが弟に、3月故郷に遊びおいでよって、元カノ連れておいでよって言ってるんだって。
それに対してアッシュ野郎が、「行きたいのはやまやまだけど仕事が最近薄くって先立つものが心許ない」って答えてる、そのLINEを見せてもらった。まあ正直なとこなんだろうな。そのとおりなんだろうなって思う。
アッシュ野郎が今暮らしてる所からお姉ちゃんとこ(彼の故郷ね、つまりあたしが子ども時代暮らしてたとこでもある)は飛行機で2時間弱かかるから、旅費もそこそこかかる。泊まるとこはなんとかするよってお姉ちゃんは言ってるけど、休みの按配とか熱入れてるボランティアの担当とか考えたら、行くの簡単に決められない、ってとこなんだろうな。
もし本当にそれが叶ったら今のあたしにはこれ以上ない喜びだけど、まったく期待には値しない模様。
でも、お姉ちゃんがあたしの存在を歓迎してくれてることとか、ということはアッシュ野郎があたしのことをお姉ちゃんに何て言ってるのかとか考えるとそれは嬉しいよな。
実は会いたいなーってしょっちゅう思ってるってこの前アッシュ野郎が言ってて、
それもまあ嘘とか愛想とかでもないんだろうなって気もする。まあ彼に今カノがいないこともあるけど。
なんで、アッシュ野郎とカレカノを維持できなかったんだろうなーってよく思う。あたしの未熟が原因だったって今はわかる。
付き合ってる時あたしちょっと心が不安定なことがあって、それを見せてしまったせいなんだよねたぶん。ひるんだと思う。そーゆーのに免疫もなかったろうし、免疫以前にお手上げって感じだったのかもな。それもわかる。残念ながらおおかたの人はそう。
でも甘えちゃったんだよな、期待してた、受け止めてくれるって。
でもさ、夫ならまだしもただの彼氏なら、ちょっと受け入れられないよってあったんだと思う。今ならわかる。
んで、アッシュ野郎にふられてから、Tという存在もあったけれどもTとは別に一念発起して大学で司書の資格をとって、今の職場に勤め始めてから、あたし変われた気がするの。
こころの病気は特に回復したというわけでもないけれど、単純に忙しいし、視野が狭まることを避けられるし、独りよがりにならず、頭がいろんな方向に向く。改めて、多様な人種の存在を再確認して、客観的に己を見ることができる。
映画を観たり、本を読んだり、そのほかのいわゆる芸術に触れたりしていることでそれができると思っていたけれど、それだけでは足りないのだな。実生活というか地に足のついた体験や感覚でもって、己と人生と世の中を実感するしかないのだな。と今は思っている。
こんなこと、自覚するのが遅いと言われればそれはそうなんだろうけどね。しかたないや、あたしゃガキなんだな。大人になりきれていない、でもそれだけじゃない、大人になりきりたくないって心の底では思ってる。わがままを誰かにいっしょに背負ってもらいたい、自分ひとりで完結したくない、わかっちゃいるけどまだ奥底では折り合いがついてないんだな。折り合いがつくってことは、諦めることじゃん、まだ世の中に諦めてないのかな、あたし、まだ追い求めたいのかな、追い求めて、得られないって百回実感してそうやって死ぬのかな。
でも、アッシュ野郎が教えてくれた、己と己以外の人間との関係性は諦めと期待の狭間に存在していて、これでいいんだ、ここであたし迷っててもいいんだ、これがあたしなんだ、って少し自分を認められる。
人と人の出会いが、いかに深く広く己を導いてくれるのものかと今更ながら。
そして、真剣に人を好きになって焦がれる気持ちで関わることは少なくともあたしにはぜったいに無駄じゃない、こういうふうにしかあたしは生きていかれないのだなと思い至るのだ。
つまりはだ、
ぐちゃぐちゃ書いたけど、結局言いたいことはたぶん、恋愛ほど自分を成長させてくれるものはない、ひいては人生が豊かになるものはない、ということなんだ!